コンテンツにスキップ

元寇と鎌倉幕府の滅亡、室町幕府

武士のおこりから鎌倉幕府の成立としくみ、元寇、室町幕府の政治と東アジアとの関係、民衆の成長と戦国時代、鎌倉・室町の文化を、年表と資料で確かめる。

このLessonでできるようになること

  • 元寇のようすと、その後の御家人の生活の変化を説明できる
  • 鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱、室町幕府の成立までの流れを説明できる
  • 勘合貿易など、室町時代の東アジアとの関係を説明できる

前に習ったこと

問題を読み込んでいます…

基本を理解する

元寇

モンゴル帝国のフビライ・ハンは国号を元とし、日本に服属を求めました。執権の北条時宗が拒否すると、元は1274年と1281年にせめてきました(元寇(蒙古襲来))。御家人は命がけで戦いましたが、新しい領地を得られなかったので恩賞は不十分でした。幕府は1297年に永仁の徳政令を出しましたが、混乱はおさまりませんでした。

鎌倉幕府の滅亡と室町幕府

後醍醐天皇は、足利尊氏らの力を借りて1333年に鎌倉幕府をたおし、建武の新政を始めました。しかし武士の不満が高まり、南北朝の動乱が始まりました。1338年、足利尊氏は征夷大将軍となり、京都に室町幕府を開きました。幕府では管領が将軍を補佐し、地方では守護が守護大名に成長しました。

東アジアとの関係

3代将軍足利義満は南北朝を統一し、倭寇を取りしまるよう求めた明と勘合貿易(日明貿易)を始めました。沖縄では琉球王国が中継貿易で栄え、蝦夷地ではアイヌ民族が交易を行っていました。

例題

勘合の役割

勘合貿易で、勘合という証明書が使われたのはなぜか。

解き方

正式な貿易船と、海賊の倭寇とを区別するため。

自分でやってみる

問題を読み込んでいます…

間違えやすいポイント

「元寇のあと、御家人は新しい領地を多く得た」

防衛の戦いで新しい領地は得られず、恩賞が少なかったので、御家人の不満が高まった。

「勘合貿易を始めたのは足利尊氏」

勘合貿易を始めたのは3代将軍の足利義満。

まとめ

確かめること できること
1 元寇のようすと、その後の御家人の生活の変化を説明できる
2 鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱、室町幕府の成立までの流れを説明できる
3 勘合貿易など、室町時代の東アジアとの関係を説明できる

理解度チェック

問題を読み込んでいます…

このページの用語

フビライ・ハン(ふびらい・はん)
モンゴル帝国の5代皇帝。中国を支配して国号を元とし、日本にも服属を求めた。 くわしく見る
元寇(蒙古襲来)(げんこう)
モンゴル帝国のフビライ・ハンが建てた元が、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の2度、九州北部にせめてきたできごと。執権は北条時宗。 くわしく見る
永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)
1297年、生活に苦しむ御家人を救うため、幕府が出した命令。御家人が手放した土地をただで取りもどさせた。 くわしく見る
建武の新政(けんむのしんせい)
1333年に鎌倉幕府がほろびたあと、後醍醐天皇が始めた、天皇中心の政治。公家を重んじたため武士の不満が高まり、2年余りでくずれた。 くわしく見る
南北朝の動乱(なんぼくちょうのどうらん)
1336年から、吉野(奈良県)の南朝と、京都の北朝に朝廷が分かれて争った時代。約60年続いた。 くわしく見る
足利尊氏(あしかがたかうじ)
1338年に北朝から征夷大将軍に任じられ、京都に室町幕府を開いた人物。 くわしく見る
管領(かんれい)
室町幕府で、将軍を補佐した役職。有力な守護大名の細川氏・斯波氏・畠山氏が交代でついた。 くわしく見る
守護大名(しゅごだいみょう)
室町時代に、国内の武士を家来にし、国を自分の領地のように支配するようになった守護。 くわしく見る
足利義満(あしかがよしみつ)
室町幕府の3代将軍。1392年に南北朝を統一し、明と勘合貿易を始めた。京都の北山に金閣を建てた。 くわしく見る
倭寇(わこう)
14世紀ごろから、朝鮮半島や中国の沿岸をおそった海賊。日本人が多かった。 くわしく見る
勘合貿易(日明貿易)(かんごうぼうえき)
足利義満が1404年に始めた、明(中国)との貿易。正式な貿易船と倭寇を区別するため、勘合という証明書を使った。 くわしく見る
琉球王国(りゅうきゅうおうこく)
1429年、尚氏が沖縄島を統一して建てた国。首里を都とし、日本・中国・東南アジアを結ぶ中継貿易で栄えた。 くわしく見る
アイヌ民族(あいぬみんぞく)
蝦夷地(北海道)などでくらしてきた先住民族。狩りや漁を行い、交易も行った。15世紀には、本州から移り住んだ和人と争った(コシャマインの戦い、1457年)。 くわしく見る

次に進もう

このページの目標に全部チェックがついたら、次へ進もう。

次の Lesson:民衆の成長と戦国時代 →